職場には事務的な会話以外のコミュニケーションが必要

事務所内

職場は、ウェットな人間関係を求める場ではありません。

 

とはいえ、サバサバしすぎるのも考えものです。

 

「職場は仕事をする場所だから、事務的な会話以外はする必要がないと」と割り切っている人もいますが、本当にそうでしょうか。

 

私自身かつて、コミュニケーションをとろうとしない女性事務員に悩まされ、「何とか辞めてほしい」と願ったことがあります。

 

当時は、事務所に帰るのも気が重く、ストレスになっていました。

 

彼女は「必要最低限の事務的な会話だけで必要十分。雑談や私語など一切不要」という主張を譲りませんでした。

 

最終的には,、彼女に穏便に辞めてもらうことで決着をつけた次第です。

 

お互いに気持ちよく働くには信頼関係が必要です。

 

信頼関係を築くには、事務的な会話以外のコミュニケーションが必要不可欠となります。

天敵

私はいわば天敵のような事務員の存在を通して、職場におけるコミュニケーションの大切さを再認識させられました。

 

そういう意味では、彼女に感謝しなくてはなりません。

 

本サイトの記事を読めば、事務的な会話以外のコミュニケーションが、人間関係の潤滑剤となっていることを理解できるでしょう。

 

1. 職場では潤滑剤となる会話が必要

どんな職場でも、人と人が一緒に働いている限り、コミュニケーションが必要となります。

 

でも中には、「職場は同僚と『仲良しこよし』で過ごす場所ではない」として必要最小限の事務的な会話だけで、用を足そうとする人がいるかもしれません。

 

「無言で仕事さえしていればいい」という考えです。

 

一人で働く職場なら、それでいいかもしれませんが、他者がいる場合、その考えは通用しません。

 

潤滑剤となるコミュニケーションが間違いなく必要になります。

 

仕事を円滑に進めるには、同じ職場で働く同僚・上司・部下との間の信頼関係が欠かせません。

 

信頼関係を築くには、十分なコミュニケーションが求められます。

 

「必要最低限の事務的な会話だけでいい」とする人の周りには、他者を寄せ付けない冷たさと、コミュニケーションを拒絶するようなオーラが漂っています。

 

これでは信頼関係を築くのは難しく、職場の人間関係にもあつれきが生じることでしょう。

 

先ほど記した事務員は、「事務的な会話以外は不要」と考える女性でした。

 

ですから朝に「おはようございます」、退社時に「お疲れ様でした」とだけ言って帰った日もあります。

 

一日に交わした言葉は、たったの二言。

けんか

いや、もう一言ありました。

 

営業日報に私の出張先を書く箇所があったので「今日、どこ?」と聞いてきました。

 

何の前ふりもなく「今日、どこ?」です。

 

ここまで徹底された「事務的な会話」は、ほかでは見られないことでしょう。

 

私も意地になって、彼女が話さないなら、どこまで話さないかを見極めるべく、あえて自分から話題を振らないでいました。

 

すると、ほぼ一日中沈黙が続いたので、とうとう耐えられず白旗を揚げました。

 

結局、日ごとに事務員に対する不信感が募り、「何とか辞めてもらえないものだろうか」と願うに至った次第です。

 

「仕事さえしていればいい。コミュニケーションなど要らない。事務的な会話で十分」と考える人がいるとすれば、要注意です。

 

信頼関係を築くどころか、一緒に働く人たちに不信感を植え付けている可能性があります。

 

互いに気持ちよく働こうと思うなら、事務的な会話にとどまらないコミュニケーションが必要です。

2.ちょっとした雑談が、相互理解につながる

どんな職場であろうと、職務専念義務を放棄するような雑談や私語は許されません。

 

でも、一日中気を張り詰めて仕事をしていたらパンクしてしまいます。

 

息抜きに雑談タイムを設けることは、ごく自然なことです。雑談タイム

喫煙者は、喫煙室でほかのスモーカーと雑談しながら情報を仕入れているといいます。

 

わずかな時間のちょっとした雑談が、信頼関係を築くための相互理解につながります。長さはまったく関係ありません。

 

「ザイアンスの法則」と言えば、心理学用語として知られている法則です。

 

単純に接触頻度を増やせば、相手は好意を持ってくれるというものです。

 

よく営業セミナーなどで紹介されます。

 

一ヵ月に一回、一時間以上かけて顧客と話すより、一週間に一回、十五分だけ顧客と話す方が、顧客はあなたに親近感を覚えるというものです。

 

会話や雑談にも似たようなところがあります。

 

仕事をさぼってする雑談や私語は、有害無益でしかないでありません。

 

けれども、ちょっとした合間に雑談をはさむことは、人間関係を適度に潤します。

 

ある学校の話です。毎朝、複数の先生たちが校門前に立って生徒にあいさつをしていたそうですが、生徒たちから人気のある男性教員は一味違いました。

先生

同じあいさつでも、続けて一言か二言付け加えていたのです。「おはよう。元気そうだな。調子はいいか?」「おはよう。今日は試合の日だな。頑張れよ」といった感じです。

 

時間にして2、3秒でしょうか。わずかなコミュニケーションでも、生徒からの人望を集めるには十分でした。

 

短くても、オープンにコミュニケーションをとろうとする気持ちが大切になります。

 

「雑談は無用」とばかりに、事務的な会話以外のコミュニケーションを完全にシャットアウトしてはなりません。

 

人間関係までも断絶してしまいます。

 

肩肘を張らないほんのちょっとした雑談が、お互いの信頼関係の醸成につながります。

3.まとめ

職場は確かに雑談や私語を楽しむ場所ではありません。

 

それでも人間関係の潤滑剤として雑談は欠かせません。

 

「事務的な会話以外は不要」とみて、周りに対して「話しかけるな」オーラを発する人は、自ら人間関係を遮断していることに気付かなければなりません。

 

大事なことは、ほんのちょっとした雑談が信頼関係を築く大きな一歩になるということです。

 

会話の長さは関係なく、オープンにコミュニケーションをとろうとする気持ちが、良好な人間関係をもたらします。

 

【追記】2019年5月24日

読者から反論を試みるコメントがあったので、要約して載せます。

読者
筆者さんがコミュニケーションに求めているのは、構ってもらうことと適度にさぼりたいという事なんじゃないでしょうかね。
読者
 余分なおしゃべりをしないことと事務的であることの区別・分離ができていません。筆者は事務員の問題点を「余分なおしゃべりをしないこと=事務的であること」に集約するという間違いを犯しています。
読者
無愛想と事務的なこと、つっけんどんと私語雑談を行わないことは単純にまったく別個のものですが、記事では一緒くたになっていますね。
モタさん
コメントありがとうございます。鋭いご指摘ですね。

ただ、弁明させていただくと、やはり同じ職場で働く以上、お互い気楽に話せる関係が当然あってしかるべきだと考えます。

 

必要最低限の会話だけで済まそうとする職場もあるかもしれませんが、せっかく縁あって同じ職場にいるのだから、相手に何かしらの関心を持って話しかけるという行為は望ましいと考えます。

 

カトリックの修道女だったマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と説いています。

相手に無関心でない限り、つまり関心を寄せれば、相手の小さな変化にも気づき、それを話題のきっかけとして話を始められるはずです。

 

これは決して無駄なおしゃべりではありません。

 

人間関係の潤滑剤として作用します。

 

私が記事で挙げた事務員については、確かに「構ってくれなかった」ということになるのかもしれませんが、構ってもらうことは悪いことでしょうか。

 

「構ってもらえなかった」ということは、すなわち相手の私に対する無関心だとすれば、これほど寂しいものはありません。

 

私自身は、仕事をさぼりたいからしゃべるのではなく、相手に「関心を寄せているよ」というメッセージを送る意味で職場のコミュニケーションを図りたいと考えます。

 

 

 

 

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4件のコメント

相手への関心は、休憩時間、退社時刻後に
いくらでも示せますよ。

私語の問題は、しゃべる人たち自身じゃなくて、
それを横でやられながらも仕事を頑張ってる
仕事仲間の心の中で起きてるものです。

究極的に言えば、私語がご説明にあるような
社交的ななにかであるかのような、
よさげなものでなかったとしても

頑張ってる仕事仲間に知られるような場所でさえなければ
ぜーんぜんオッケーですよ。

という事かと思います。

全部読んで思ったのは、
マザーテレサを例に挙げ、私語を
「他者への関心を示してあげる(大)事」と書いてらっしゃいますが、
その役割は、筆者様は、誰か他の人じゃなく
「自分」じゃないとイヤなんだろうなぁって思いました。

コメントありがとうございます。
今振り返ってみても、私の置かれた職場環境は特殊だったと思わざるを得ません。
私の未熟さが、結果的には記事に挙げたような事務員の行動を引き寄せていたのだと思うのですが、
当時の事務員は昼の休憩時間が来ると自宅に帰り、定時ピッタリに退勤していました。
朝は出社してから、特に会話があるわけではありません。
私の方から話しかけても、アイコンタクトを取ろうとせず、下を向いてばかりです。
本人は「双極性障害」が原因でコミュニケーションが取れないと弁解しましたが、私から
すれば「双極性障害」が原因とは思えませんでした。
どちらかと言うと、「自閉症」に近いのではないかと感じた次第です。
「自閉気味」と指摘すると、逆鱗に触れたようで、色をなして反論されましたが。
確かに私の場合、寂しい人間なので、人から関心を示してもらうことを求めているのかもしれません。
ちなみに新約聖書(ルカ6章31節)には「人々から自分にしてもらいたいと願う通りに、あなたがたも
彼らに同じようにしなさい」との言葉があります。
寂しい人間だからこそ、他の人にも関心を寄せたいと思っています。

読者からの的確な反論に対し、きちんと返答していませんね。
とにかく沈黙が苦手な方なんでしょうか。
静かな環境で仕事に没頭できるとは思われないのでしょうか?
挨拶はしているのなら敵意はありませんよ。沈黙は悪いことではないです。無関心だからといって、転んだ人を助けないわけではないです。
それはそれ。これはこれ。仕事に集中したいのに、仕事より面倒くさい雑談に頭を使いたくない人もいるのです。仕事より気疲れしますし。
どうしても沈黙が嫌で話がしたいならテーマを決めてくれたほうがネタには困りません。

確かに沈黙は苦手ですね。
一般論としては、さくらさんがおっしゃる通り、「沈黙は悪いことではない」と言えます。だから私の置かれた環境の特殊性から、ブログ記事を書いていることを理解してもらえたらと思います。

私の職場環境は、例の事務員と二人きりでした。事務員と私は、昭和50年生まれで同年齢でした。同学年で、お互い独身です。事務員は女性で私は男性です。台所がある8畳くらいの事務所は、私が生活するアパートの一室でした。そのような特殊な環境の中で机を向かい合わせて座っているのです。9時から17時まで、会話がなく、挨拶だけだとしたら、どう思いますか、そこまで想像力を働かせるのは、さくらさんにとっては難しいことですか。

私が学生時代に住んでいた下宿では、おばちゃんが一人で運営を切り盛りしていました。賄い付きだったので、朝食と晩御飯は、1階の台所のスペースで摂っていました。するとおばちゃんが何かと話しかけてきます。テレビを見ていると、テレビのネタを話題に話を振ってきました。あるとき、一人の下宿人が退去したことを知りました。同じ大学に通う男子学生です。おばちゃんに聞くと「出てもらった」と言います。なぜかというと「ずっと黙っていて気持ちが悪かったから」だそうです。意外でした。私はその退去した男子学生について、少しおとなしい、あるいは寡黙かなとは感じましたが、気持ち悪いとまでは思いませんでしたから。ところがおばちゃんにとっては、自分の運営する下宿で、会話を気持ちよく交わせない下宿人とは一緒にいるのも嫌だと感じたようです。おばちゃんの下宿だから、だれも文句は言えません。おばちゃんと退去した男子学生は、一言で言えば「相性が合わなかった」ということになるのでしょう。

今だったら、当時のおばちゃんの気持ちが痛いほど分かります。当時はおばちゃんの仕打ちを「理不尽だ」と感じましたが、同じ下宿で暮らす以上、少しでも気持ちよく過ごせる相手と一緒にいたいもの。朝に何かと話しかけてくるおばちゃんは、黙々と食事を摂ることに「没頭」している下宿人よりは、話しかけたらレスポンスを返してくれる下宿人と一緒にいることを選んだようです。

事務員との関係に戻りますが、お互い相性が合わなかったのだと思います。帰宅後はテレビ漬けというほどテレビの好きな事務員だったので、全くテレビを見なかった私とは、価値観が一致しなかったこともあります。それでも、テレビ好きな事務員に「最近どんなドラマが面白いの?」と聞いてみたことがあります。返ってきた言葉は「ドラマを見ない人に話すことはない」とそっけないものでした。私の方から歩み寄っても、拒絶される感じです。にべもありませんでした。

さくらさんは、職場で沈黙を貫くタイプのようですね。「テーマを決めてくれたほうがネタには困りません」とありますので、会話そのものを拒絶されているわけではなさそうです。さくらさんとは、一緒にいても同じテーマで話し合うことができそうな気がしました。ご指摘ありがとうございます。

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