結論から述べます。
「敬虔なクリスチャン」というのが素顔です。
以下、Wikipediaを参考に系譜を載せてみます。
石破 茂の曽祖父は、金森 通倫(みちとも)といいます。
金森は、同志社を設立した新島襄から洗礼を授かったことでも知られています。
※洗礼=キリスト教の入信に際して儀式を受けること(例えば全身を水に浸すことなど)
1883年(明治16年)に同志社普通学校と同志社神学校の校長を務めたあと牧師・伝道者になっています。
金森 通倫の長男が金森 太郎です。
金森 太郎もキリスト教信者です。
石破 茂の外祖父に当たります。
※外祖父=母方の祖父
徳島県知事、山形県知事、内務官僚などを務めました。
金森 太郎の長女・和子もキリスト教信者です。
和子は、石破 茂の母親に当たります。
その和子が石破 二朗に嫁ぎます。
石破 二朗は、1958年(昭和33年)から4期15年余りにわたり鳥取県知事を務めています。
石破 茂の父親です。
父親の宗教は、浄土真宗だったそうです。
一方、石破 茂自身は「生まれたときからのキリスト教徒です」と告白しています。
※参考:クリスチャントゥデイ「この人に聞く(7)石破茂国務大臣「ご用のためにお用いください」祈りと願いを刻んで「真実」と向き合う」
こうして4代にわたってキリスト教の信仰を守っていることになります。
※石破茂オフィシャルサイトより
石破 茂が心に留める聖書の箇所
クリスチャントゥデイの記事では、石破 茂が心に留めているという聖書の箇所が紹介されています。
新約聖書ルカによる福音書18章9節から14節までの箇所です。
ファリサイ派とは、ユダヤ教の律法を厳格に守ろうとする一派を指します。
週に二度断食して祈り、収入の十分の一を捧げることは、ユダヤの律法にかなうことです。
善行と言えます。
一方の徴税人は当時、卑しい人間とみなされていました。
当時ユダヤを支配していたローマ帝国のために税金を取り立てるわけですから、同胞のユダヤ人からは売国奴のような扱いをされていました。
さげすまれていたわけです。
特に律法を完璧に守ろうとするファリサイ派からすれば、「敵国」のために働く徴税人などはクズの中のクズでした。
それがファリサイ派の人の祈りにも表れています。
それなのに神の前で「正しい人間」と認められたのは、皮肉なことに徴税人の方でした。
石破 茂は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という一節を心に留めているそうです。
※参考:クリスチャントゥデイ「この人に聞く(7)石破茂国務大臣「ご用のためにお用いください」祈りと願いを刻んで「真実」と向き合う」
政治家として「常に謙虚でいよう」と言い聞かせているのかもしれません。
まとめ
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」という記述が聖書に見られます。
クリスチャンの石破 茂なら、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」にはなるまいと誓っているはずです。
長期政権は必ず腐敗するとも言います。
モリ・カケ問題で明らかになった疑惑のオンパレード。
野党の追及を「はぐらかしている」と批判された一国の総理大臣。
党総裁選に掲げたスローガンは「正直・公正」でした。
石破 茂が本当に闘おうとしている相手とは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」なのではないかと感じました。
本日は兵庫、大阪におじゃまして街頭演説を行いました。お忙しい中お集りいただきました皆様、誠にありがとうございました。
石破茂総会裁選特設サイトをご覧ください。https://t.co/MqGPGr9PgV #街頭演説 #石破 #総裁選 pic.twitter.com/9n6w3YtU5j— 石破茂 (@shigeruishiba) 2018年9月11日
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でないことを感謝します。
私は週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんでください。』
言っておくが、義(ぎ)とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」