後輩への指導で反発されたときの対応

パソコンのマニュアル操作の手順を誤っていた会社の後輩に、ミスを指摘したところ、「いえ、私は絶対にそんなミスはしていません」と言い張る。たじろいだのは、私の方。素直に聞いてくれるものと思っていたのに、まさかの反発。己の不徳の致すところと考えた。

とは、いえ、ミスはミス。「このボタンを押しましたよね」と同意を求める私に対して、「いえ、押してません」と否定の言葉。

こんなときは、淡々と事実を指摘すべきだった。

「あなたはこのボタンを押していないかもしれないが、実際にエラー表示が出ている。原因は不明。だが、システムの仕様ではこのボタンを押すことによってエラー表示が出る。そして現に出ていた」と。

念頭にあったのはカーネギーの教え

D・カーネギーの著書『人を動かす』(創元社)の第三部第一章に「議論をさける」という内容が書かれている。

カーネギーは、「人間が粗削りをし、神様が仕上げてくださる」という引用句を「聖書の文句だ」と言い張る男の過ちを指摘。「シェークスピアの文句だ」と伝えたところ、その男は頭に血が上ったのだろう。

「そんなはずはない」と大変な剣幕でカーネギーに食ってかかったようだ。

そこでカーネギーは、その場に居合わせた「ガモンド」という名のシェークスピアの研究家に裁決を求めたところ、ガモンドはつぎのように話したという。

「デール、君のほうが間違っているよ。あちらのほうが正しい。確かに聖書からだ」

その晩、宴会の帰り道で、私はガモンドに向かっていった。

「フランク、あれはシェークスピアからだよ。君はよく知っているはずじゃないか」

「もちろんそうさ。“ハムレット”の第五幕第二場のことばだよ。だがね、デール、僕たちは、めでたい席に招かれた客だよ。

なぜあの男の間違いを証明しなきゃならんのだ。証明すれば相手に好かれるかね?

相手の面子メンツのことも考えてやるべきだよ。

まして相手は君に意見を求めはしなかっただろう?

君の意見など聞きたくなかったのだ。

議論などする必要がどこにある?

どんな場合にも鋭角は避けたほうがいいんだ」

D・カーネギー著『文庫版 人を動かす』(創元社)第1版161ページより

「議論は避けた方が賢明」という教えだ。

だから私は「分かった。私の見間違いだ」と言って、引き下がった。

見間違いでないことは断言する。

だが「分かった。私の見間違いだ」と言って、先輩である私が折れた。

この対応は正しかったのだろうか。

悶々とした挙句、出した結論は、冒頭に記した。

淡々と事実を指摘するべきだった、ということだ。

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モタヨシ
不遇の就職氷河期世代。